2004年度入学式式辞(2004年4月5日)

2004年度に入学された皆さんへ

お祝いの言葉

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。
また、大学院進学の皆さんおめでとうございます。

文字どおり、雲一つなく晴れ上がった春の日、キャンパスの桜の花も諸君が現れるのを待っていたかのように咲き続けてくれました。この佳き日、ご来賓および保護者の多数ご臨席のもと、2004年度広島工業大学大学院および学部入学の宣誓式を執り行うことができますことは、私たち本学関係者一同にとりまして最高の喜びです。教職員、在校生ともども心から歓迎します。

保護者の皆さま方におかれましては、長年にわたる教育の一つの区切りとなることかと存じます。高いところからではございますが、これまでのご苦労に対し敬意を表しますとともに、この度の入学を心からお慶び申し上げます。

本学は私学教育に尽くした校祖鶴虎太郎先生の信念であった「教育は愛なり」を建学の精神とし、「常に神と共に歩み、社会に奉仕する」を教育方針としております。

建学の精神と教育方針については、理事長先生から、総合特別講義で伺う機会もあることと思います。私は、建学の精神の「教育は愛なり」の「愛」を、「可能性を信ずること」と理解しております。われわれ教職員は、諸君の可能性を信じております。

若い諸君は、自分の中にある可能性にまだ十分気づいていないかも知れませんが、これから大学生活や大学院生活を始めるにあたって、諸君も、是非自分の中には可能性があることを信じて欲しいと思います。というのは、教育の営みは、当事者である教職員と学生がその可能性を信じ、それを共有するところから始まるからです。

本学では高等学校での多様な学習歴を前提として諸君を受け入れております。先生方はそのことも十分承知で授業に当たってくださるはずです。しかし、中にはこれまで学んでいない知識も必要となることがあります。学んでいない言葉や概念が出てくることもあります。本学には、そのような状況に対応するため、教育学習支援センターがあります。多様な学習歴を持つ諸君の学びを助けるために設けられているセンターです。高等学校教育の経験豊かな専任の先生が常駐しています。誰でも、いつでも自由に出入りしていいことになっています。正課の授業で十分な理解ができないときは、是非、センターを訪ねてみてください。

入学前教育セミナーでも申し上げましたが、技術者は人の命に関係する仕事をします。先日の回転ドアによる死亡事故は、そのことを改めて思わせてくれました。これからの勉強は受験のためではなく、技術者として人の命を預かるために必要なのです。ひるむことなく学業に立ち向かってほしいと思います。

先日、綿矢りさの「蹴りたい背中」を読みました。諸君の中にも読んだ人がいるかも知れません。史上最年少の芥川賞受賞作で、作者が諸君と同じ世代の19歳です。言うまでもなく小説の世界は現実とは違いますし、小説はしょせん小説です。しかし同じ世代の諸君の考えとも無縁ではなかろう、と思って読んだ次第です。

還暦近くの私には、小説の展開についていくことは容易ではありませんでしたが、さすがと思わせる組み立てと表現力でした。19歳の作者は次のように主人公に言わせています。

「認めてほしい。許してほしい。(中略)私の心にからみつく黒い筋を指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何ひとつ思い浮かばないくせに。」と。

2ページにまたがるこの4行が妙に気になり、ページをめくったり戻ったりして何度か読み返しました。

技術はもとより社会のためにあり、人のためにあります。豊田佐吉の自動織機の発明は、機(はた)を織る単純労働からお母さんを何とか解放させてやりたいという思いからであったと、小学生時代に読んだ伝記にあったように思います。ノーベル賞を受賞した田中耕一さんも、研究を始めたのは病気で亡くなったお母さんのためであったと言っていました。そして今もなお、地球上のあちこちで科学技術の恩恵を待っている人々が沢山います。社会や人と関わらない技術はありえません。

本学の教育方針である「社会に奉仕する」ことは、技術者として社会に、そして人に仕えるということです。人とのかかわりを大切にするということでもあります。それは技術者にとって不可欠なことです。

「人にやってあげたいことなんか、何ひとつ思い浮かばないくせに、人にしてほしいことばっかり」という19歳の作者世代の言い分をどう考えればいいか、何度も読んだのは技術者に関するそういう思いがよぎったためだったかもしれません。「人にやってあげたいことなんか、何ひとつ思い浮かばないくせに、人にしてほしいことばっかり」。これは19歳の表現ですが、必ずしも19歳だけの気持ちではありません。私自身も考えさせられました。皆さんはどう思うでしょうか。

自分の感覚と自分の寸法で物事をとらえるという実体験も技術者にとって不可欠です。実体験のないところに技術はありえません。しかし、いまや技術の進歩によって、実体験がなくとも生きることができるようになりました。たとえば、10kmという距離はどの程度か。車で行くと10分から15分です。多くの人が体験しています。しかし、それを自分の感覚と自分の寸法、すなわち徒歩で実感した人となると諸君の中に何人いるでしょうか。

人間は本来幼少時より、成長に応じていろいろなことを実体験していくのだと思います。実体験しながら成長するというべきかもしれません。しかし最近は、それらを実体験しなくとも"成長"することができるようになっています(この成長は「 」つきの成長かもしれません)。技術が発達しすぎたからでしょうか。自動車に乗れば10kmは簡単な距離です。諸君が悪いのではなく、時代がそうさせているといえます。

しかし、実体験がなければいい設計はできません。どこに設置するのか、どのような人が使うのか、作動する環境はどうかなど、現場を知らなければ設置できません。六本木ヒルズの事故はそれをよく物語っています。

幸い、諸君にはこれからの4年間があります。大学院生には、なお2年間があります。この期間を人と人とのかかわりや実体験の機会とすることができます。人とのかかわり方を学び、そして実際にかかわりをつくり、また自分の感覚と自分の寸法でものごとを実体験するための機会としてください。

冒頭に申し上げました学業にいそしむことも一つの実体験です。自分で心底から納得することを実体験するためなのです。正課の授業に飽き足らない人は図書館に行ってほしいと思います。専門書、参考書、ビデオが整備されています。先人が蓄えた知見との出合いがあります。自学自習する喜びを実体験することができます。

大学としても、もっと体験したいという諸君のための機会と環境を整備していくことにしております。課外活動にも是非参加して欲しいと思います。そこにも、人との出会いや実体験があります。しかもそれらは教室では得られない種類のもので大変貴重です。

19歳の芥川賞作家は、「川の浅瀬に重い石を落とすと、川底の砂が立ち上がって水を濁す」と言っています。さすがと思わせる表現です。人とのかかわりや実体験は「川の浅瀬に重い石を落とす」ことだと言うのです。石を落とすことは諸君のこれまでの澄んだ生活やものの見方を「濁す」ことになります。

しかし技術はすべてその濁った中から始まるということです。思い切って「川底に重い石を落として」みること、人の中に入り込むこと、そして実体験すること、立ち向かって取り組んでみること、これからの4年間にそれをやってほしいと思います。

私は、今、綿矢りさの表現を借りれば、諸君の「背中を蹴りたい」衝動にかられています。諸君の背中は可能性に満ちた背中です。あらためて入学おめでとうございます。諸君一人ひとりにとって実りある4年間ないしは大学院生活となるよう願って、お祝いの言葉とさせていただきます。