「新入生に贈る言葉」-石を落して水を濁そう

広報紙「広島工大」vol.189(2004年5月)掲載

新入生の皆さん入学おめでとう。
これからの4年間が諸君一人ひとりにとって実りある4年間となるよう願っております。大学院入学の諸君にも同じ気持ちです。

蹴りたい背中

作者が諸君と同じ世代の19歳ということで、綿矢りさの「蹴りたい背中」を読んだ。史上最年少芥川賞受賞作である。人と人のかかわりを意識の底で求めながら、それでいて人との関係の距離感を測りながら生きている高校生(若い世代)の揺れ動く複雑な心理を描いた小説と理解した。

主人公の相手として登場する男子高校生「にな川君」の部屋にはベッドや勉強机だけでなく冷蔵庫も備えられている。もちろん個室である。彼は、オリチャンという女性モデルのファンで、部屋には彼女関係のコレクションで一杯の大きなプラスチックケースもある。「認めてほしい。許してほしい。(中略)私の心にからみつく黒い筋を指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何ひとつ思い浮かばないくせに。」という19歳の述懐を複雑な気持ちで何度も読んだ。

人とのかかわりそして実体験

「常に神と共に歩み、社会に奉仕する」は本学の教育方針である。「社会に奉仕する」ことは人と人とのかかわりを大切にすることである。もとより技術は社会のため、人のためにある。豊田佐吉の自動織機の発明は、機(はた)を織る単純労働からお母さんを何とか解放させてやりたいという思いからであった。ノーベル賞を受賞した田中耕一さんも、研究を始めたのは病気で亡くなったお母さんのためであった。そして今もなお、地球上のあちこちで科学技術の恩恵を待っている人々がいる。社会や人とのかかわりから技術が生まれる。

「人にやってあげたいことなんか、何ひとつ思い浮かばないくせに、人にしてほしいことばっかり」という19歳世代の考えは、人とのかかわりにどう結びつくのか。

人とのかかわりだけではなく、自分の感覚と寸法で物事を捉えるという実体験も技術者にとって不可欠である。実体験のないところに技術はありえない。しかし、技術の進歩によって、実体験がなくとも生きることができるようになった。

たとえば、10kmという距離はどの程度か。車で行くと10分から15分である。多くの人が体験している。ただ、それを自分の感覚と寸法である"徒歩"で実感した人となると諸君の中に何人いるであろうか。

「にな川君」にとっては「オリチャン」の世界が全てである。彼に複雑な思いを寄せる主人公との出会い19歳の実体験なのかもしれないが、私の考える実体験とはどこか異なる。二つの異なる種類の "実体験"をどう結びつければよいのか。

最後の機会として

人間は、幼少時より成長に応じていろいろな人とのかかわりや実体験をしていくものである。それによって成長すると言うべきか。「にな川君」は、家族と顔を合わせなくとも自分の部屋に行ける。現代は、人とのかかわりや実体験がなくとも"成長"することができる時代なのかもしれない。時代がそうさせているとも言える。しかし、これから技術者を目指そうとする諸君には、人とのかかわりと実体験が必要である。

幸いなことに、諸君はこれから始まる4年間をその最後の機会とすることができる。本学には諸君さえその気になれば、その機会は多くある。教室で実体験ができる。橋がなぜあのような形になっているのか。計算と実験によって納得できる。正課の授業で理解できなかったら、教育学習支援センターがある。正課の授業内容との関連を踏まえて、懇切に教えてもらえるはずである。これからの勉強は受験のためではなく、納得を実体験するためなのである。

正課の授業に飽き足らない人は図書館に行ってほしい。専門書、参考書だけでなくビデオが整備されている。先人との出会いがあり、自学自習する喜びを実体験できる。課外活動では、教室では得られない人との出会いがあり、教室とは異なる実体験ができる。

石を落として水を濁す

「川の浅瀬に重い石を落とすと、川底の砂が立ち上がって水を濁す」と言う19歳の芥川賞作家の表現を借りれば、人とのかかわりや実体験は「川の浅瀬に重い石を落とす」ことである。それは諸君のこれまでの澄んだ生活やものの見方を「濁す」ことになるかもしれない。しかし技術はすべてその濁った中から始まるということだ。思い切って、「川底に重い石を落とす」こと、人の中に入り込むこと、そして思い切って実体験すること。そこに生ずる濁った水の中から新しい世界が開ける。

本学の建学の精神である「教育は愛なり」の「愛」は可能性を信ずることと理解している。19歳の芥川賞作家の表現を借りれば、私は今、可能性に満ちた諸君の「背中を蹴りたい」衝動にかられている。